使徒言行録8章26節-40節 『手引きしてくれる人がいなければ』 2010年10月10日
人種の坩堝と言われる現代社会において、様々な国の人たちと出会うのは稀なことではありません。東アジア諸国のような、私たち日本人と殆ど見分けのつかない外国人から、人目でそれと分かるヨーロッパ・アフリカの外国人まで、日常的に出会っております。
今日の箇所では、フィリポがある外国人と出会うことによるエピソードが記されております。前の箇所でフィリポは、魔術師シモンへ洗礼を授け、北イスラエルであるサマリア人に対して宣教活動を行なっておりましたが、今日の箇所で彼は、「エルサレムからガザへ下る寂しい道へ行きなさい」という主の言葉を聞いて、それに従うことから話は始まります。前はサマリア人全体に対する宣教でしたけれども、今日はたった一人の異邦人への宣教であります。その一人への救いのために、心を砕き、思いをもって、主は人をお遣わしになるのであります。
そこへ現れたのが、「エチオピアの女王カンダケの高官で女王の全財産を管理していたエチオピア人の宦官」でありました。彼がなぜユダヤ地方に来ていたのかということですが、27節には「エルサレムに礼拝にきて、帰る途中であった」と書かれております。ですから彼自身はもともとユダヤ教の信仰を持ち、長い巡礼の旅を厭わずに行なう、篤い信仰者であったことが分かります。
エチオピアという名前は、もともとギリシャの「イティオプス」に由来します。この「イティオプス」は「日に焼けた人々」という意味でありまして、黒人の肌の色に対する驚きがそのような名前をつけたのでありました。
黒人に対して「日焼けした」という言い方は、今の私たちにとって、侮蔑的な言葉であるように感じるかもしれません。私たちはキング牧師や、ネルソン・マンデラの黒人解放運動をよく知る者として、黒人が差別の対象であるという歴史からそのように感じてしまうのであります。しかしそれは、アフリカ黒人が奴隷として新大陸で売買されてから顕著になって行った概念であるように感じます。しかし使徒言行録の書かれた当時、その黒い肌は、侮蔑の対象などでは決してなく、むしろユダヤ人やローマ人の間で驚きと賞賛の対象ですらあったという事であります。さらに、現代社会問題の一つである南北問題などもあるはずもなく、彼らは貧困地域の人ではありません。彼は女王の側近であり、女王の全財産を任せられた高官なのであって、高い位につく重要人物であります。
この彼が、エルサレム神殿での礼拝の帰りに馬車に乗りながらイザヤ書を読んでおりました。その朗読の声を聞き、フィリポは彼に「読んでいることがお分かりになりますか」と話しかけるのです。
エチオピアの宦官は大変素直に、そして謙虚に「分かりません」と答えるのです。その分からなかった聖書が、イザヤ書53章7節~8節の、いわゆる「苦難の僕」の箇所であります。「彼は羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行なわれなかった。誰が、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ」。このような御言葉であります。
これに対してフィリポは、これこそが十字架のキリストの事である、と指し示し、この解き明かしに感銘を受けた宦官は「洗礼を受けたい」という意思を表明いたします。37節「宦官は言った。ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。そして車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた」。このようにして彼は洗礼に満たされながらエチオピアに帰って行くのであります。
これは異邦人が洗礼を受け、神の民の一員とされる印象的な場面でありますが、実はこの洗礼に関して、今日の箇所では全く触れられておりませんが、大きな難問を抱えておりました。それは彼が、「去勢された宦官である」ということであります。宦官というのは、もともと、女王に仕えるという職務上、去勢されていなければならず、また王の側近となるわけですから、権力の世襲を防ぐためにこのような制度が始まったと言われております。
しかし先ほどお読みいたしました。申命記23章2節以下には、「去勢された者は、主の会衆に加わることは出来ない。混血の人は主の会衆に加わることは出来ない」と書かれております。これが律法で定められた、ユダヤ教徒であるための条件であったのです。ですから「エチオピア人」の、しかも「宦官」ということであれば、彼がユダヤ人の主の会衆に加わることなど到底許されるはずもなく、どんなに信仰が篤くても、彼は部外者以外の何者でもなく、ユダヤ教に興味のある、非ユダヤ人であったのであります。
このような彼の境遇は、彼自身を悩ませていたに違いありません。信仰の有無ではなく、人種の違いや、体の機能の違い、また、その人の選んだ人生による結果によって、つまり外面的特長によってその人の全人格が決定されてしまうという律法だったのであります。
しかしここで宦官は苦難の僕についてフィリポに質問を投げ掛けるのであります。ここでは「イエスについて福音を告げ知らせた」とだけ書かれておりますが、フィリポはおそらくイエス・キリストという方の救いの本質を語ったのであろうと思います。それはキリストこそが、全ての人のために苦しんだ方である、という使信であります。「十字架の受難は、全ての人の十字架であり、それは『異邦人』であり、『去勢された宦官』でもある、あなたへの救いです」と、恐らくそう話したのではないかと思います。この救いの使信を聞いた宦官は、二つ返事で「ここに水があります。どうか洗礼を受けさせてください。」と洗礼を懇願したのです。
旧約の律法は、イスラエル人たちの信仰を守るためのものであります。異邦人を仲間として認めることによって、宗教混交の危険が伴うでしょうし、去勢を受けた者が会衆となることによって、男色の問題や、子孫への受け継ぎが立たれている、という問題があったのかもしれません。いずれにしてもネコの額ほどのちっぽけなユダヤ地方の弱小国家である、ユダヤ人たちを異教の脅威から守り、子孫へ未来永劫に信仰を存続させることから考えて、申命
記23章のような律法が必要であったのかもしれません。ですから私たちは、一概にこの律法の偏狭さを批判的に捉えてはならないのであります。
もっとも、イザヤ書56章3節~5節にはこのように書かれております。1153ページです。「主のもとに集ってきた異邦人は言うな。主はご自分の民とわたしを区別されると。宦官も言うな。見よ、わたしは枯れ木に過ぎない、と。なぜなら、主はこう言われる。宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。また、主のもとに集ってきた異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに、連なることを許す。」
このように書かれております。恐らくこの宦官は、律法の重要さと厳格さによって、受け入れて貰えないということで、悲しさを心に刻み込んでいたと考えられます。しかし律法の書とは別に、イザヤ書には異邦人への慰めの言葉が記されていることに親しみを持って、イザヤ書を愛読していたのでありましょう。この彼がキリストの福音に導かれたことは、至極当然の事でありました。
さて、今日の箇所を紐解く上で、注目すべきことは、このエピソードの主人公は誰であるのか、ということであります。ここにはフィリポ、エチオピアの宦官、名前だけなら女王カンダケ、なども出てきますが、フィリポと宦官の対話にのみ注目してしまうと思います。しかし、結論から言いますならば、この箇所は徹頭徹尾、神の見えない力によって導かれているのであります。事の発端は「主の天使はフィリポに言葉を掛けた」ことから始まっておりまして、29節で「“主の霊”」が語り掛けたのも、また偶然にもフィリポが追いかけることの出来る程度の速さで馬車が動いていたのも、宦官が声に出してイザヤ書を「朗読」していたことも、道を進んで行くうちに、水のあるところに来たことも、それは主によって準備が整えられていることを示しているのであります。また洗礼を授けたフィリポが、主の霊によって連れ去ってしまうことも、このエピソードの主人公が、主であることを示しているのです。洗礼に導いたフィリポという人間の力に注目してしまうことの多い私たちですが、しかしその後すぐにフィリポは宦官との関係を絶たれてしまいます。それは決して残念なことでもなく、むしろ洗礼によってそれを受けた者は、人間同士の関係の中にではなく、神との関係性の中で生きるという事を表しているのではないでしょうか。 この後エチオピアの宦官がどのような人生を送ったのかを聖書は記しておりません。しかしエウセビオスによれば、彼はエチオピアに帰り、宣教師になったと報告しております。その真偽のほどは分かりませんけれども、しかし私たちは、この生き生きとした回心の出来事を、私たちの信仰的事柄として素直に受け取るならば、このエピソードが単なる物語ではなく、私たちの歩みそのものと関連づけて読まれるべきものとなるのであります。
つまり私たちは、人生を歩む中で、また信仰を貫く中で、様々な障壁や障害、課題や問題に突き当たります。それはエチオピアの宦官が異邦人であることや、律法では去勢者が認められていなかったという事に示されているとおり、自分ではどうすることも出来ない外面的な障壁、束縛、人生の呪縛を抱えるのです。それは自分ではどうすることも出来ず、ただ密かに神に自らを問うだけであります。この宦官がたった一人でイザヤ書を読んでいたのは、このような悶々とした思いの中での神への問い掛けだったのかもしれません。
そうであるならば、今日の箇所は全き恵みとなって私たちに答えます。それは「あなたの障壁は、キリストによって取り払われた」という救いです。人間の力を遥かに超えたところに存在する、神の力と導きが、私たちを取り囲んでいる。このことを信じて生きることき、全ての障害が、また恵みとなり、全ての困難が、主の導きへの礎となるのであります。このことを心に留めて、今週も主に導かれて歩んで生きましょう。