創世記17章1節-27節 2010年9月2日
16章ではハガルの逃亡と神の祝福について学びました。私たちはアブラハムの一族が、このとき様々な不信仰という試練と、また一族内の諍い(サラとハガルの諍い)を神様によってを乗り越えることが出来、さらにイシュマエルという息子を得るまでに至ったことを前回みてまいりました 。
その後すぐにアブラハムたちは神の約束を聞いたのでしょうか。16章の次は17章になっておりますから、その後すぐに聞いたように感じるかもしれません。しかし今日の初めの言葉は「アブラムが99歳になったとき」であります。つまり16章16節にある86歳であった、ところから、99歳に、つまり13年間も飛んでしまっているのです。ある注解者は、この箇所に対して、13年間変化がなかったことは、信仰の停滞である、と言いました。イシュマエルは順調に育ち13歳になりました。諍いをおこしたサラとハガルも問題なく同居し、それにアブラハムは満足していたのではないでしょうか。しかしそのような安泰で幸福のときは、時として信仰は停滞するのであります。この生活に満足し、神なしで生きていけるような錯覚に陥ってしまう安定期は、むしろ信仰が研ぎ澄まされない時期であるのです。そのため聖書は、彼らの13年間を無視します。その安定した―ともすれば神なしでも安定しているような錯覚に陥るこの13年間を―まったく問題にしないのであります。
今日の箇所は13年後、アブラハムが99歳を迎えたその時、突如として神の約束が与えられるのであります。神の御言葉を聞いたのが75歳のときであり、そののち神の約束の言葉を何度も聞きながら、なかなか実現せずに24年間が経ちましたが、その間彼は、徐々に信仰者として深められてきたのでしょう。様々な挫折や罪を経て、自分が尚も生かされていることを実感した彼を見て、私たちは励まされる思いが致します。それは年を取って、全てにおいてきたとは言え、しかし100歳になろうとしている老齢者が、日々神への確信を強められ、高められていることは、私たちを顧みましても、それは恵みとなるのではないでしょうか。体力も健康も衰えるのに、信仰は遅々としてではありますが、高められ、深められていくのです。物忘れが激しく、自分の頭の中から神の存在が薄らいでいくように感じても、決して神があなたから離れることはなく、むしろあなたの中でさらに信仰は盛んになっていくのだ、というメッセージを聞き取りたいのです。
さて、ここで与えられたものは、神の契約でありました。15節で結ばれた契約をもう一度更新されたということでしょうけれども、しかしここで特徴的なのは、割礼であります。そのことは後ほど見て行きたいと思います。
神との契約更新に際して彼は、アブラムからアブラハムへと名前の変更を求められます。この意味の違いははっきりとは分かっていないというのが正直なところでありますが、一般的には、アブラムは「高き父」もしくは「私の父は高められる」という意味であり、アブラハムは「多くの者の父」という意味であると言われます。
そしてサライと呼ばれていた彼女はサラに変更するよう命じられます。これも蓋然性に乏しいのでありますが、サライは「あざ笑いのまと」という意味であり、サラは「王女」であると言われます。この時アブラハムは100歳、サラ90歳と言われています(17節)。しかしこの時からアブラハムとサラは、神の新たな人生を与えられたということであります。
さて、アブラハムは神の御前にひれ伏しながらも「『しかし笑って』ひそかに言った~」とあります。また「どうかイシュマエルが御前に生き永らえますように」と神に言ったとありますが、この「アブラハムの笑い」と「イシュマエルへの生き永らえへの言葉」が何を意味するものであるかが重要なポイントとなりましょう。
渡辺信夫牧師の著書「アブラハムの神」136ページ以下にはこのように書かれております。
「このない老人夫婦が一新に願をかけて子を授けられる、というおとぎ話を私たちは沢山知っています。アブラハムの場合はそれの同類ではありません。彼は理性的な人間であったようです。一念を込めて祈り通せば何でもできる、というような狂信は彼に見られません。すでにイシュマエルが与えられているのだから、それ以上に恵みをむさぼらなくてよいではないか。既に無形の恵みを数多く受けているのだから、有形のものはなくても満足すべきではないか」と、この老夫婦は慎ましく語り合っていたのでありましょう。だがその敬虔な慎ましさは、自分たちの能力についての諦めと結びついております。願ったところで起こりえないのだから、あるがままの恵みで満足し、それを恵みとして精神的に解釈して行こうとしていた~のでした。」
「~~(138ページ)彼の笑いは、神を恐れない嘲笑ではなく、知恵の浅い者の単純な喜悦でもなく、神の約束を正面から受けず、斜めにかわし、これを神のユーモアとして受け流すものなのです。厳粛なことを厳粛に受け止めないでおこうとするのです。そして話題を変えて、どうかイシュマエルが御前に生き永らえますように、と願うのであります。すなわち「主なる神よ、あなたの大いなる恵みはわたしども夫婦に十分良く分かっております。イシュマエルをサラの養子にすることが出来ただけで私どもは満足し、感謝しております。イシュマエルが祝福のうちに命ながらえさえすれば、あなたのお約束は十分に実現するのであります。100歳の夫と、90歳の妻に子供が出来るというユーモアは、お志だけで十分感謝でございます。」という意味になるでありましょうか。主の御言葉を文字通り受け取って、約束がその通り実現するのを待つならば、躓きになるに違いないと考え、躓きにならないように上手に解釈しようとしたのであります。」
「私たちにもそのような解釈が必要な場合があります。というのは、人間の文字の表現は不完全なもので、その不完全さから神の御言葉を自由にする処置は必要だからです。けれども御言葉と正面から取り組むことを避け、それに「然り」とも「否」とも言わなくてすむようにすることは、御言葉の正しい解釈ではありえないでしょう。すなわち、御言葉は私たちは立たせるか、躓かせるか、どちらか一方の事しかしないという性格を持って迫って来るものだからです」
このように言われておりま
した。洞察力に富んだ読み方であろうと思います。
さらに言いますと、この「イシュマエルが御前に生きながらえますように」の言葉は、人間の可視的な性格が示されております。それは「割礼」の必要性を促すものであります。割礼というのは、それを受ければ救われるというものではなく、一つの神の選びの(救いの)「しるし」として与えられるものであります。しるしが必要か否かは聖書全体を通して議論されるところでありますが、しかし人間は、それを見なければ救いを確認することが出来ないほどギリギリのところで信仰が試されることがあると思います。そのとき自らに刻まれた割礼の事実を神の救いのしるしとして実感するとき、自らを支える可視的な救いの確証となるのだと思うのです。翻って考えると、私たちが洗礼を受けたという事実(しるし)において、今にも倒れそうなときに救いの確信を持ち続けることがあると思うのです。私たちの弱さは、目に見えないと信じることが出来なくなるところまで弱まります。そのとき可視的な確証が信仰者を支える事があると思うのです。
未だ見えないイサク誕生の約束を信じることが出来なかったアブラハムに対して割礼が与えられることは、見える息子イシュマエルの将来だけを考える彼に対して、最も適切な可視的な祝福のしるしとなったのであります。
割礼というはそもそも古代エジプトで始まったものでありまして、主が異教の風習を取り入れたということであります。15章で私たちは契約を結ぶしるしとして獣を真っ二つに裂いてその間を通り抜ける方法を採用したことを見てきましたが、それも異教の古い儀式を用いての締結でありました。つまり我々人間の側が最も分かり易い形でそれを可視的なものとして見せるために、主は自らを低め給うてそうなさったのでありましょう。
また割礼に関して言うならば、普通家督を継ぐことや、土地や財産の相続をするとき、その人の子である(子孫である)ことによって無条件に相続が出来るものでありますが、しかし信仰においては全くそれと異なっております。14節には、「無割礼の者の裁き」が記されていますけれども、それは全員が個人個人が神と向かい合うことを示しているのであります。つまり聖書の信仰は世襲ではなく、神との関係は一代ごとに新たに更新されるべきものであることを示しているのです。
また、割礼を受けるものは、社会的な地位や名誉を受けたものではなく、12節「直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆」割礼を受けねばならないと命じられ、結果的に26節以下「アブラハムと息子のイシュマエルは、すぐその日に割礼を受けた。アブラハムの家の男子は、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷もみな、共に割礼を受けた」、言われていることは、注目に値いたします。それは神が全ての命に対して目を留められているということだからです。当時、奴隷に人格はなく、命も軽んじられ、所有物として扱われていた彼らでありますが、ここでは神の御前に主人と同等な位置にあることが言われているのです。99歳の主人も、その家督を継ぐことになるはずの13歳のイシュマエルも、使用人とされてきた奴隷も、全ての命ある者が平等に扱われ、神の御前に深くひれ伏すことを求めることの中に、神の思いの深さを感じるものであります。
またそのことは、アブラハムの信仰とその継承が、血縁の中で受け継がれ守られていくもの(血縁共同体)ではなく、神の恵みによって結ばれた信仰共同体(礼拝共同体)であることが示されています。アブラハムの子孫だけが主の救いを受けるのではなく、主の約束を受けた者が救いに入れられるのです。主の救いとは、決して選民的で独善的な、救われる人が決まっている救いなのではなく、全世界的に広がる主の賜物なのであります。
ここに集う私たちもまた、血縁ではなく、信仰共同体として益々強められ、お互いに高められる教会員として生きることが求められているのではないでしょうか。99歳のアブラハムも13歳のイシュマエルも、90歳のサラも、男女の奴隷も、年齢も性別も、環境も違う全ての者が、同じ条件で主の救いを与えられる、その神の下で私たちは憩うのであります。